瓜連まちの風土記 第48巻
あしたの瓜連をデザインする
【新しい瓜連】 瓜連を暮らしの博物館 都市に 生産消費者を育むための人づくり キャンパスとして活用する |
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1.本稿の目的とその背景 本稿は、茨城県の瓜連町(現在は合併され、那珂市になっている。)ⅰで1980年から行われた「コミュニティ大学」の分析を行い、その先進性と人材育成の仕組みそのものを再評価することで、これからの地域に活かす可能性を提案するものである。 「コミュニティ大学」とは、地域社会に集う人を対象として提供される地域に根付いた学びの場、特に体系立てられた教育を提供する場のことだと考えている。今東京を中心として、コミュニティ大学を謳う学びの場が作られ始めているが、瓜連では今から30年前に「主婦農業講座」や「婦人農業大学」と呼ばれる、農家に嫁いだ女性達を対象に農業のイロハを教えるために作られ、最終的に瓜連という地域に活かす技を持ち、「輝ける人材」を輩出する学びの場があった。 はじまりは農業に関する技術習得のためだったが、収穫した野菜の販売をするようになり、加工所を建て、余った野菜を加工して漬物を製造・販売するまでに発展した。「主婦農業講座」「婦人農業大学」は、現在は終了することになったが、そこで学んだ女性達を中心に加工所は発展を続け、現在では加工所は3棟に広がり、漬物だけでなく、地場産の素材を中心に使った無添加のお弁当や、瓜連といえばこれ、といわれるまでになった和菓子の製造と販売を担うまでに至っている。 しかし、瓜連における「コミュニティ大学」の功績は、目に見えるそのような結果だけではない。そこに集う地域の女性達が、「行くことで幸福になった」「気持ちが豊かになった」といえるようになった点も、功績の大きな一つである。 金銭で計ることのできる成果だけではなく、心の豊かさをも大きく膨らませることにも成功したこの瓜連における「コミュニティ大学」は、日本が当時バブル期に向かって経済成長に浮かれていた時代にあって、非常に画期的な取り組みであったと言えよう。また、市場に対しての生産者である農家の女性達が、販売や交換を主目的とせず、自らの満足や生活の向上のために、物やサービスを生み出すという構図は、21世紀になって未来学者のアルビン・トフラーの提唱した「生産消費者」ⅱの姿そのものである。それを、今から約30年前に先取りして実践した瓜連の「コミュニティ大学」の先進性は、注目すべきものであるのではないだろうか。 本稿では、まず瓜連での現地調査結果から、「コミュニティ大学」がいかにして成立し、成功し、終了したかという経過を明らかにする。そこから、「コミュニティ大学」における人材育成の取り組みを分析し、瓜連における人材育成の先進性を再評価したい。そして瓜連が独自に生み出した「コミュニティ大学」の文化を活かすことのできる、地方創生の具体的な提案を行っていきたい。 現地調査は、2014年9月19日と9月28日の2回行った。第1回目は、瓜連の町と加工所の見学を行った後、瓜連における先進的な人材育成事業「コミュニティ大学」を推進した先崎千尋氏へのインタビュー調査を行った。第2回目は、再度先崎千尋氏のほか、実際に「コミュニティ大学」を経験し、現在も加工所で働く女性A氏(60代)のお二方にご協力をいただき、インタビュー調査を行った。 |
2.瓜連「コミュニティ大学」事業の評価 「コミュニティ大学」とは、現在のところ明確な定義立てのない言葉である。しかし筆者は、冒頭で定義したとおり、「地域社会に集う人を対象として提供される地域に根付いた学びの場、特に体系立てられた教育を提供する場」を指したい。それは、現在ある「コミュニティ大学」の役割の要素、そしてこれから発展しようとしている方向性から導き出した定義である。 今、「コミュニティ大学」やそれに類する名を持つ学びの場は大きく3つある。1つは、大学が大学のある地域に対して学習の場を提供する学びの場と、2つ目は、自治体が中心となってその地域にある大学と連携して提供する学び、そして3つ目は、大学や自治体にとらわれない団体が地域に開いて運営する学びの場がある。 1つ目の大学が行う生涯学習や一般公開講座については、数も多く歴史もある。ところが「地域」「コミュニティ」という概念がついてきたのは最近になってからである。また、2つ目の自治体がその地域にある大学と連携して運営する学びの場としては、東京都港区、そして豊島区で「コミュニティ大学」として開設している。それぞれ2007年度からの開設で、これも非常に新しい取り組みである。これらは、昨今の地域社会への関心の高まりを反映したものであるといえる。それだけでなく、大学としては、大学のある地域社会への貢献が求められていること、そして少子化で学生数が低下する中、地域社会に多く集う社会人を取り込む事業であるということも指摘できる。 そして最後の1つ、自治体や大学以外の団体やNPO等が地域に提供している学びの場であるが、これも前の2つと同様、近年顕著な動きをしている活動である。その地域の特色を非常に多く活用し、よりその地域性の高い取り組みであるといえるⅲ。 これら3つの形態をもつ学びの場から抽出した要素が、地域社会に集う人を対象にしていること、地域に根ざした立地を生かしていることや、地域に根ざし体系立てられた教育内容を持つということである。このことから、「コミュニティ大学」とは、「地域社会に集う人を対象として提供される地域に根付いた学びの場」だと定義した。 ところが「コミュニティ大学」は30年前に瓜連で存在していた。そして、今ある「コミュニティ大学」があくまで生涯学習、趣味や教養の学習の域を出ないのに対し、明確に何らかの社会活動に貢献できる人材を育てることを目的として、人材育成事業を行っていた。 2-1.「主婦農業講座」と「婦人農業大学」の広がり 瓜連で、「コミュニティ大学」事業が始まるきっかけとなったのは、秋田県の旧仁賀保町農協が1970年代初めに農業自給率を上げようとして始めた、「農産物自給運動」ⅳである。「農産物自給運動」が全国的に広がっていくに当たり、茨城県でも「50万円自給運動」を展開した。この一環で瓜連では、当時農協に勤務し、農協婦人部を担当していた先崎千尋氏が中心となって、農家に嫁いだものの農業をよく知らない、兼業農家のお嫁さんである若い女性を対象に、1980年に農業の基礎講座を開講した。それが「主婦農業講座」である。 「主婦農業講座」は、農協、行政(町役場)、現在の農業改良普及センターの三者が役割分担をして実行することとなった。具体的には、農協が人を募集し、町が予算を出し、農業改良普及センターが実際の講座運営を行った。 講座の中身は、野菜を中心とした作物に関する知識から、いつどのように種を蒔き、収穫するのかといった、農業の初歩の初歩であった。座学はもちろん、畑に出て学ぶフィールドワークも行った。フィールドワークでは、受講生である女性達の家の畑に出向き、土壌診断や作物の育ち具合の確認や反省も行うというように、受講生の生活に役立つ内容もあった。 その様子は、次第に地域の中で、お宅のお嫁さんは何をやっているの?といったように有名になり、そのうちに農家のベテランの主婦の女性達にも関心を持たれるようになった。「主婦農業講座」の受講生募集は年に一回だったが、若い女性以外にも幅広く参加するようになり、最大期では50人程度になったという。 「主婦農業講座」は、農業改良普及センターが指導するだけあり、野菜を中心とした作物の種は専業農家用の本格的なものであり、学ぶ女性達も真面目に取り組んだため、非常に質の良いものが多くできた。もちろんできた野菜は自家用であったのだが、自家用にしては多くの野菜が余ってしまった。そこで、有機農業で育てた、地場産の安心な野菜ということを活かし、余った野菜を市場(即売所)に出して販売することになった。それは、自給自足を目的とした技術習得、人材育成のための「講座」から、金銭のやり取りが発生する商売への大きな転換点であった。 1980年頃の農家の女性達にとって、自分達で育てた自分達用の作物を人に対して売ること、また人前でものを売ってお金を得ること自体、恥だと考えられていた。年配の女性の中には、人にものを売るくらいなら死んだ方がましだと言う人もいたというⅴ.ところが、実際に週一回「青空市」という即売所を出して、育てた野菜が売れていくことを体験すると、女性達の考え方も変わっていった。家で自分達のやっていた農作業が、お金という対価を得ることのできる「仕事」なのだという発見が、女性達の自信に繋がっていったという。また、市場に買いに来るお客さんとの会話や仲間たちとの会話の中で、次はこんなものを作ろうというモチベーションにつながったという。こうして女性達が自信をつけ、自主的に活動を進めることで、町の中での即売所であった「青空市」から、白鳥の飛来で観光客が多く訪れていた古徳沼での「白鳥市」、静峰ふるさと公園での桜の時期に合わせて開いた「桜市」へと販売の機会が増えていくこととなり、「主婦農業講座」は農業技術の習得と人材育成だけでなく、技術を社会に活かすことのできる仕事に転換する有機農業による社会事業へと変化していった。 そして「主婦農業講座」が始まってから5年後の1985年には、茨城県の正式なプログラムとして「婦人農業大学」として発展することになった。「婦人農業大学」自体は、瓜連だけでなく、各普及センター単位で作られたのだが、瓜連の場合は先崎千尋氏が事務局の中心となって独自のプログラムを展開させていった。しかし、事務局側の意向だけで展開するのではなかった。そこに集う女性達自身も、技術を教えてもらうだけの受動的な姿勢に一貫することなく、「こんなことをしてみたい」という希望を事務局に伝えることによって、求められていることに的確に応えることのできる仕組みができあがっていたという。このような女性達の変化をもたらしたことも、「主婦農業講座」や「婦人農業大学」と即売所での成功が可能にしたのだろうと推測できる。 2-2.「コミュニティ大学」から「加工所」への発展 規模と内容が充実していくのに伴って、作った野菜を即売所で売っても余る状況が続いていった。そこで生まれた要望から実現したのが、余った野菜を別の品物に加工するための加工所の設立であった。この加工所の設立には、農林水産省ⅵの補助事業として認められて予算の一部補助がでた。足りない分の事業費約1000万円に対しては、女性達に一口1万円からの出資を求めた。その結果、女性達からの出資金として約200万円を集めることに成功した。本来農家の女性として家の中で働くだけでは、出資金としてこれだけの金額を出すことはできなかっただろう。約200万円を出資することを可能にしたのは、女性達が「主婦農業講座」や「婦人農業大学」によって技術と経済力を身につけたということの証明ともいえるだろう。残りの事業費は、瓜連の農協から借り入れをし、売り上げから返済していくこととした。加工所の運営のためには、任意団体として農作物加工組合を設立し、そこで女性達を中心に働いてもらうことになった。 加工所が完成し、そこで作られることになったのが野菜の塩漬け、古漬けといった漬け物類である。材料となる野菜は、女性達の畑からそれぞれ持ち寄った有機野菜である。そのほかの塩や醤油や酢などの調味料についても、すべて素材の良いものを使用ⅶして、添加物は一切使用しないこととした。市販の漬け物は、コストを下げるために原材料としてすでに塩漬けになった状態の野菜を輸入したり、漬け物用の調味料も業者の販売しているものを使ったりしているⅷ。しかし加工所では、あくまで地場産の野菜を使い、添加物を使用しない素朴な漬け物をつけることを徹底する姿勢をとった。当然その分のコストは高くはなるが、それでも最初から加工所で働く女性達に、人件費として時給で500円程度を出すことができたという。 加工所における漬け物の製造にあたっては、「一流のものを作るなら一流のところに弟子入りをする」ⅸという先崎氏の方針の下、女性達はさまざまなところに研修に行ったという。しかし漬け物屋に行くのではなく、全国各地で自分達のように漬け物を一生懸命作っている女性達のところへ行って、学んでくるという学び方であった。研修では、自分たちの作品をサンプルとして持って行き、質問を事前に作って行くという事前学習を伴うものだった。そういった研修には、女性たち自身が旅費を出して向かったという。なぜなら、自らの知識や技術に繋がる学習は、自らの力で行かなければ身につかないという先崎氏の指導によるものだったという。そうした研修の中で、東京都八王子のニュー生協で出してもらった手作りのお弁当をヒントに、加工所でもお弁当を製造するようにもなり、栃木県の黒羽町での研修で見た黒糖まんじゅうを冷凍して保存する例を見て、黒糖まんじゅうを取り入れるなど、加工所での製造もバラエティに富んでいった。それらすべてに共通しているのは、無添加で、安心で、質の良いおいしい食品作りである。最大時期で、加工組合の人数は100名程度、売り上げは年間で3000万円にも上った。加工所もお弁当作りを始めるようになってから、20坪を増築、和菓子作りを始めるようになって、40坪を増築することになった。その都度、女性達から出資を募って集めた。 そのうちに、瓜連の側が研修を受け入れるようになり、女性達はノウハウを伝える立場にもなっていった。中には講演会に講師として呼ばれ、経験を大勢の前で語る場面も出てきた。最初に、人前で物を売ることに抵抗を示していた女性達が、講師となって活躍する様子を見て、先崎氏は「加工所の女性達は、瓜連で一番輝ける集団である」と伝えるようになったという。 2-3.「婦人農業大学」の終了、加工所の移管 加工所が大きく成長、発展を遂げるには、「婦人農業大学」での自主的な学習や実践があったからである、と第二回目のインタビュー調査でA氏は語っているⅹ。「婦人農業大学」があったからこそ、加工所が単にものを作り販売するという労働に終始するだけでなく、工夫することを考え、新しいことに挑戦しようとする意欲が湧いたのだという。しかしその「婦人農業大学」は有意義な活動をしたものの終了することになった。続かなくなってしまった理由を、先崎氏とA氏は次のように指摘している。 まずは第一の理由として、高齢化する一方で世代交代に失敗し、次を担う人材がいないことである。参加している農協婦人部の女性達が高齢化していく中で、活動を受け継ぐ世代がいなくなってしまったことである。当然地域の社会構造の変化も関係があるが、若い世代がいなくなることで、事業が立ち回らなくなったという。「婦人農業大学」のみならず加工所も同様に、高齢化に伴って、形が変わった。加工組合のメンバーが高齢化するに従い、経理などの職を担っていた女性達も、仕事ができなくなってしまった。結局加工所は、任意団体としての活動をやめ、500万円ほどで農協に移管することとなった。その500万円は出資した女性達へボーナスとして返金がされた。現在、加工所は瓜連の農協が管理運営をしている。加工所で働く女性の平均年齢は、多少若い人も入ってきたこともあり、60歳代後半から70歳代程度であるという。働く女性の人数も減ってしまい、それに伴ってまんじゅうといった特に技術の必要な製品を作ることのできる人材も減ることで、製造量も減っている状況であるという。 第二の理由としては、「婦人農業大学」をまとめ、動かす事務局、つまり農協側の担当者が人事異動に伴い、定着せずに常に変わるということである。当初は農協婦人部を担当した先崎氏が担い、「婦人農業大学」の方針や、女性達の意向をくみ取りながら、一流を目指すための研修を含むさまざまな活動を導いてきた。しかし、瓜連の那珂市への合併を経て市町村規模が大きくなるにつれ、担当者の変更が頻繁になった。最初に「婦人農業大学」を始めた頃の精神が、長く引き継がれにくい状況となった。主に公務員等による定期的な人事異動による弊害は、他でも多く指摘されることであるが、人を育てて技術を生み出すというような長期的目線を必要とするこのような事業に対しては、短いスパンによる担当者の変更が適さなかったという、これも一つの事例だといえる。 |
3.「コミュニティ大学」 社会事業としての再評価、地域創生への提案 ここまで、「主婦農業講座」から「婦人農業大学」に至る経緯と、加工所への発展、そして終了までの経緯を追った。瓜連における「主婦農業講座」そして「婦人農業大学」は、始まりが農協の一事業として始まったため、農業というテーマに終始し専門職が強くはあるが、瓜連という地域で誕生し、その女性達を対象として提供されたことから、瓜連という地域に根ざした「コミュニティ大学」であるといえる。最初期にあっては、農産物自給運動という農政からのスタートではあったが、それを切り離して一つの社会事業として見てみると、非常に先進的で、学ぶべきものが多いことがわかる。以下、二つの切り口から瓜連における「コミュニティ大学」の取り組みを考察し、改めて再評価することにしたい。そして瓜連の「コミュニティ大学」のアイディアから、これからの地域創生に活かせる提案を行っていきたい。 3-1.生産消費者としての視点-生活へパラダイムシフト 瓜連における「主婦農業講座」そして「婦人農業大学」という「コミュニティ大学」の行った授業内容で最も注目すべきものとして、普段農家の女性達が畑で野菜や作物を育て過程で消費するという自給自足の生活は、市場価値で置き換えたときに一月にどのくらいの価値(金額)に相当するものなのかということを一年にわたって調べさせたというものがある。つまり、家の畑で女性達が育てて食卓に並べて家族全員で消費した、きゅうり何本、トマト何個、米何合分を、スーパーや小売店での時価相場金額に換算するといくらなのか、ということを一ヶ月ずつ計算し、年間の金額を出させたのである。その結果、この調査を行った1986年の時点で、多い家庭で年間約100万円、少ない家庭でも80万円程度に相当するⅹⅰことがわかった。 この結果から言えることは、女性達がこれまで無償労働としてやってきた家庭での畑仕事は、年間で約100万円、一月あたり8~9万円に相当するということである。しかもその労働によって食卓に上る作物は、新鮮で農薬汚染の少ない安全なものである。つまり、パートやアルバイトによって得ることができる金額とほぼ同等の金額を自宅の畑で叶えることができ、同時に家族や自分たちの生活が豊かになることにつながるのである。当たり前のこととしてやっていた女性達の無償労働の価値を、貨幣価値のほか、おいしさや安全性といった満足度によって気づかせることになった。この満足度の発見によって、女性達はますます「コミュニティ大学」に熱心に通うようになったという。 この調査を推進したのは、「婦人農業大学」を農協婦人部の担当者として運営していた先崎氏である。先崎氏は、女性達の普段行う無償労働に対する見直しを図ろうとしたわけだが、これは現代において重要視されるようになった、「生産消費者」という考え方の先取りだったと言える。 つまり、人が一般的な経済活動以外の場で行う労働に着目し、そこにある潜在的な市場を見いだすということは、アルビン・トフラーが著書「富の未来」で提示する「生産消費者」による経済の概念と重なる。また、一般的な経済活動に含まれない「生産消費者」の無給の労働は、「生産消費者」に対して満足度や幸福をもたらすということも、トフラーが指摘していることである。先崎氏の「婦人農業大学」での一連の調査は、21世紀にこれからの富の未来を考えるのに必要なエッセンスを30年前に捉えていたということになる。 トフラーの「富の未来」では、人が自分の生活や満足のために行う無給の労働が生み出す富は、今後ますます巨大化していくだろうと指摘している。代表的なところでは、主婦が家庭で行う家事労働やボランティアが生産消費にあたるが、最近の顕著なものとしてDIYや、YouTubeやSNSで自らの創作活動を投稿すること等、アマチュアである一般の人が自分の満足のために行う文化的な生産活動も生産消費にあたる。インターネットが広く浸透するようになったことで、トフラーの予言通り、生産消費の活動は拡大の一途を遂げていると言っていいだろう。逆に言えば、生産消費の生み出す非経済の富の体制に気づかなければ、富の未来に対応できなくなると言えるのである。同時に、生産消費の活動は、生産消費者その人に満足感をもたらすものでもある。そういった意味でも、生産消費者の存在を加味した上で、これからの経済政策を議論しなくてはならないという。 しかし瓜連では、「コミュニティ大学」を通じて生産消費の重要性を説いていた。30年前というと、バブルの直前、日本経済がまだ右肩上がりである時である。日本中が目に見える経済価値をこそ重視する中で、時代を先取りする形で生産消費経済に気がつき、農家の女性達を導き、そしてGDPという形ではなく、目に見えない価値と生活への満足度を上げていた。生活にとって、重要なものとは何かをみつめなおす運動であり、働き方、生活の価値に対するパラダイムシフトを促すものであった。このことは、非常に先進的な取り組みであり、現代においてこそ再評価し、取り入れていくべき内容であるはずである。 3-2.幸福の自覚 瓜連における「コミュニティ大学」が、そこに集まる女性達に、自覚を促したもう一つの点が、自分たちの幸福度である。インタビュー調査に応じてくれたA氏、また加工所で働いている女性達が口をそろえるように言っていたのは、今やっている仕事なり活動が非常に楽しい、ということである。A氏はこれまで30年間の、「主婦農業講座」「婦人農業大学」そして加工所での活動は、「(講座に)行くことが家にいるよりも楽しくなった」、「やみつきになった」と答えている。それは、自分の家の畑で仕事をするだけでは得られないものであったという。「主婦農業講座」や「婦人農業大学」、即売所や加工所に行けば、家の嫁としての立場から離れて行動することができた。お客さんとの会話や、仲間と家で作った料理を持ち寄りながらのおしゃべりのなかで、料理に対するヒント等を得ることもできた。農家の嫁という立場の女性にとっては、このような場がとてもありがたかったというのである。 生活の場面以外にも変化があったという。A氏ご自身、性格的に人前に出て話すことにためらいを持っていたそうだが、「主婦農業講座」や「婦人農業大学」に行くにつれて、人と話せるようになっていったという。少なくとも、「嫁だから(親を差し置いて出しゃばってはいけない)」というのはなくなった。 A氏に限ったことではなく、2項でも示したように「婦人農業大学」に通う女性の中には、他の地域に呼ばれて講師を務めることになった人もいた。それは当然ながら、家の嫁として仕事をするだけではなし得なかったことであろう。瓜連における「コミュニティ大学」の成功は、このように集まる女性達の生活に何らかの前向きな変化をもたらし、「楽しい」「幸福だ」と感じることによって、ますます「コミュニティ大学」への積極性を生むという連鎖を生んだことであろう。 瓜連における「コミュニティ大学」の有益だった点、そして先進的な点として挙げられるのは、女性達の欲求、つまりマズローの言う欲求段階説ⅹⅱにおける最高次の「自己実現の欲求」に応えることに成功した点だと言える。 マズローの欲求段階説はあまりに有名であるため、敢えてここで語る必要もないほどだが、マズローによると人間の欲求は5段階に分けることができる。有名なピラミッド型によって図式される段階であるが、火葬の欲求が満たされると、より上の欲求を満たそうとするという理論である。ピラミッドの底辺が人間の最も原初的な欲求である「生理的欲求」、それが満たされると「安全の欲求」、「所属と愛の欲求」、「承認の欲求」である。「自己実現」の欲求とは、成長したいという欲求にほかならない。自己を実現するために何かを生み出して、自己を確立するためのよりどころとするのである。 30年前という時代に農家に嫁いだ女性達にとって、日々の生活の中で「自己実現の欲求」を満たす場は少なかったはずである。家族関係や家の中での立場、そして周囲の人間関係は、程度の差はあるかもしれないが、少なくとも現代の同世代の女性のそれとは大きく異なっていたとは想像に難くない。そんな女性達の自己実現の場所、モチベーションを維持するための場所として「コミュニティ大学」は機能していたのである。だからこそ女性達は熱心に通い、そして積極的に活動に参加し、よりよいものづくりを目指したのではないだろうか。「コミュニティ大学」に限らず、教育事業には人間の成長欲求を刺激し、それに的確に応えるカリキュラムが必要である。しかし、その姿勢を示し、維持している場所はあるだろうか。「主婦農業講座」「婦人農業大学」では、それができた。農協婦人部の担当として先崎氏は、今何が必要でどうしたいのか。ということをよく聞き出すことをしていたという。通う人の学びたいこと、やりたいことを聞き、それに対して何ができるかを考え実行していた。人間同士の信頼関係を築き、ニーズの分析をして応えるのは、マーケティングとも言える。教育事業を行うには、ここまでやるという覚悟が必要なのだということがわかる。そしてそれは、これからのあらゆる社会事業に対して学ぶべきことと言えるだろう。 3-3.現代への活かし方-地域創生への提案 -「半農半芸術」というwin winの生活デザイン それでは、これらの先進性を再評価することで、どのように活かすことができるのだろうか。 安倍政権の打ち出した、地域創生という名前もすでに耳慣れたものになっている。自治体においては、地域創生のための予算がついているが、地域創生に対する有効な手立てを用意できているとは言えず、今は手探り状態である。むしろ民間では、個人団体問わず、多様な形で地域を元気にするための活動を展開している。ただ、官民問わず色々な活動を起こすにあたって、忘れてはいけないと感じるのは、「都会だけの価値観で見たり考えたりしないこと」ではないだろうか。一言に地域創生と言っても、その地域にとってのゴールは何なのか(観光としての成功なのか、若い世代の住民を増やすことか、産業を活性化させることか)を、地域の人の声から聞き取って設定するのが大前提であろう。都会の価値観は、地域に活力を与えるかもしれないが、それだけでは、一時的な人集めで終わる可能性もあり、何より地域不在で協力も得られない事態に陥りがちになる。 しかし瓜連の「コミュニティ大学」で実行されていた、特に生産消費者としての視点を養う活動は、今の時代にこそ活きる考え方であると同時に、自然発生的に瓜連で生まれた考え方である。働き方、そして生活の豊かさの基準をくつがえしたこのパラダイムシフトは、トフラーが指摘したように日本だけでなく、今全世界的な動きになりつつある。時代に先駆けて瓜連が生産消費経済を進めていたということには、非常に大きな意義があり、これを地域創生のキーワードに提案することができるのではないかと考えている。そこで、「コミュニティ大学」で生み出された精神や枠組みを活かして、瓜連への地域創生に対する提案を行ってみたい。 今回は、瓜連の地域創生の目的を、若い世代の住民を増やすことと設定する。この目的は、インタビュー調査の中から聞かれていたことである。加工所も若い働き手を必要としているし、それが深刻な問題であることも訴えていた。また、地域の中で空いた畑が多々見受けられた。畑も田んぼも、人の手が加わらなければ、土埃が舞ったりすることから逆に迷惑なものになってしまうと言う。現地調査に行った際に、空いた畑を借りて多品種少生産の野菜を育て、東京の高級レストランへ出荷している若い男性に出会った。高齢化が進む農家の中では、畑に全く手が入らないよりは、人に畑を貸して畑を活かす必要があるのだという。このような必要は掘り出すと多くあると思う。こういったことから、瓜連や付近の地域に若い世代が居住して、農業人口を増やすことをゴールとして設定することができるのではないか。 ゴールに向かうにあたって切り口となる視点というのが、兼業農家となる人を呼び込むことである。そもそも「コミュニティ大学」で学生となる人の対象は、兼業農家の女性達であった。「コミュニティ大学」で調査したように、自分の畑で育てた野菜を1986年の時価相場で計算してみて年間100万円程度の価値があったと紹介したが、その額では逆にアルバイト程度の収入しかないことになる。いきなり専業農家として生計を立てたい人を集めるというには、若者たちにとってハードルが高い。しかし兼業農家ということで考えると、主収入を別に持つことになる。現金収入ではなくても、副収入として年間100万円程度まかなうことができる点は、魅力となるのではないか。収入だけでなく、安全な野菜を食卓に並べることができるのは、加工所の女性達がそうであったように、生活の満足度を上げることにもつながる。そこで、兼業農家として半分農業をし、半分別の仕事をしないか、という提案をしたい。 実は、半分農業、半分別の仕事をするという提案は、「半分半X」として塩見直紀氏1990年代後半から提唱していたライフスタイルの考え方として、すでに存在している。「半農半Xという生き方」という著書で語られた島根県は自治体としてUターンIターンの移住者を呼び込むために、このアイディアを取り入れ始めている。半Xとは、Xに入る好きな職業、天職を探して入れてみようという意味である。半分農業をしながら、里山で自分の好きなことを行うことも一つの生き方であると紹介し、不況で将来の見えにくい若い世代に新しいライフスタイルを提案している。 瓜連における今回の提案の場合、塩見氏の「農にある小さな暮らし」(塩見氏ブログより)とあるような農業とともに新しい生き方の可能性を模索するという、アイディア自体に共鳴するところはあるものの、あえて今回、Xには、本人たちが探し出す転職ではなく、「芸術」という領域に挟めて呼びかけることとしたい。農業と芸術を半分ずつ行ういわば、「半農半芸術」は、農業にも芸術にとっても、win winの関係を築くことができると考えるからである。 ターゲットとなる、芸術を行う人、つまりアーティストが、都市部ではなく地域に住むということで言うと、アーティスト・イン・レジデンスという活動が知られる。アーティストが地域に住み込んで作品制作を行うというもので、日本各地のみならず世界中で行われている。しかしこの事業の多くは、アーティスト達を招聘する形で行われ、アーティスト支援という性格が大きい。なぜアーティスト支援なのか。これは多くの人に想像がつくように、アーティストは、作品制作だけで食べていくことができないからである。アーティストが職業として成り立たないのは、今にはじまったことではないが、何世紀も前は、日本でも海外でも有力な権力者が、いわばパトロンとしてバックアップすることがあった。社会制度が変わって、なかなかパトロンとなる人物が存在しない今の世の中においては、アーティストの活動を市民が支援する動きになっている。近年においては、アートの果たす社会的役割にも少しずつ認知されるようになったため、個人だけでなく、企業や行政の側もアーティストへの支援を行うことが増えている。 しかし、支援の対象になることができるアーティストは一握りであり、そもそも支援に頼るだけでは本来の自由な作品制作とは一線を画すことにもなる。そこで、「半農半芸術」として、兼業農業をしながら作品の制作にあたると、アーティスト自身が食べていく手段を得ることにつながる。アーティストの自立支援にもなり、農業の側にも芸術の側にも得があり、win winの関係が生まれるのではないかと考える。 アーティストの中でも、演劇や舞踏等の舞台芸術に携わっている人達には、半農半芸術のスタイルは非常にマッチしている。特に演劇の劇団員たちは、演劇の一定期間稽古と上演を行うという性格から、毎日9時から18時まで働くといったような正規の仕事に就きづらく、多くは非正規の仕事に就きながら活動を行っている。また、舞台芸術自体が、残念ながら、我が国において愛好する人の人口がそれほど多くないことから、舞台芸術への支援の数も、美術や音楽と比較しても多くない。そんな彼らが、半分農業をすれば、自分たちの生活を営む助けとすることができるとともに、農作業が終わった後に自由に時間を使って稽古を行うことができるし、農閑期を中心に、各地に公演に出かけることができる。そして、農作業では、都会では気軽には難しい、演劇に必要な体作りにも役立てることができるのも魅力だと言える。 当然農業に対しては素人の集まりであるため、町の人には協力をしていただかなければならない。農業の技術は、やはり「コミュニティ大学」において学ぶことが必要である。それ以外にも、地域の方に教えを請うこともあるだろうが、その過程において何らかの交流が起こることも期待できる。 劇団が地域に根ざして活動をしている例はいくつかある。例えば、1970年代に富山県利賀村に引っ越しをした、アングラ演劇を代表する鈴木忠志氏の率いるSCOTや、鳥取県でNPO法人として活動する劇団、鳥の劇場がある。また、近年は公共劇場という意識の高まりと共に、地域の劇場に芸術監督が就いて、その劇場でどのようなラインナップで芸術活動を行うかの方向性を定めるようになっている。その中で、地域の劇場に劇団が結びついて、地域を中心に芸術活動を行うケースもある。静岡県のSPACが代表的な例である。 文化政策の面からも、半農半芸術のスタイルは、非常に有効であると言えるのだが、少々敷居が高いイメージもあるだろう。そこで、もう一つ挙げたい事例がある。過疎化が進む町に移住者を多く集めたという事例で、すでに有名になっている徳島県名西郡神山町のケースである。ここでは、ITベンチャー企業等が本社機能と同レベルの仕事が可能なサテライトオフィスを構えたりして、多く移住者を集めた。しかし、神山町の好循環が始まったきっかけは、NPO法人グリーンバレーが始めたアーティスト・イン・レジデンスであるというⅹⅲ. アーティスト・イン・レジデンスは今も続行しているが、神山町で最も注目されているのは、ワーク・イン・レジデンスとして、移住者を町の側から「逆指名」して誘致する制度であろう。これは町に足りないお店や技術を持つ人を、呼び込むという手法である。しかし、町に必要な職を持つ人を集める割に、クリエイティブな職に携わったり、一見関係がないような職業であっても、事業内容として新しい価値をもたらす仕事をするような人材を積極的に集めている。この「クリエイティブ」という視点は、最初にアーティストが持ち込んで刺激をした視点の持ちようであることに間違いはないだろう。そして同時に、「クリエイティブ」という視点こそが、神山町の発展の根拠なのである。 地域にクリエイティブな人材を多く集めることへの効果については、アメリカの経済学者であるリチャード・フロリダが著書「クリエイティブ・クラスの世紀」の中で述べている。この中で、クリエイティブ・クラスと言われる人々のもたらす経済効果を明らかにし、それだけでなくその地域の経済成長をも支える階層となると指摘している。フロリダが言うクリエイティブとは、直訳すると「創造的な」となるが、単にクリエイターだけでなく、仕事に対して自分たちで工夫を凝らして、これまでにない付加価値を積極的に創造し付与していく人のことを指している。むしろイノベーターとしての思考を持った人、とした方が良いかもしれない。従って、ものづくりをしている人に対象を限っているわけではない。神山町が移住する人を逆指名する、ワーク・イン・レジデンスという制度においては、この視点を重要視しているだろうと推測でき、一見クリエイティブ・クラスに結びつかないような職業を担っている人であっても、創造性や付加価値に富んだ新しいモノを作り出そうとしている。このことから、クリエイティブという視点は、地域の発展に寄与することができるということを、実例と共に証明できるのである。芸術活動を行うアーティストの視点は、これまでにない効果を生み出すことが期待できるのである。 ただ、神山町での取り組みと、瓜連で提案する兼業農家をしつつ、芸術活動を行うという「半農半芸術」が決定的に違う点は、瓜連で独自に培われた生産消費者としての視点を持っているという点である。神山町では、全国からの移住者を集めているが、町のなかで行われている仕事は、都会と変わりがない。むしろ都会と同じレベルの仕事が、山間部の田舎でもできるのだ、ということを示していて、それが魅力になっている。一方瓜連で可能なのは、今までの都会で行われてきた生活の価値、お金の価値を見直すことができ、生活を自分たちの好きなようにデザインできる、ということである。そのような自由さ、また無理なく自然に触れ合い、自然と共に生きる生活そのものが、新たな付加価値を生み出すクリエイティブ・ライフになるのではないだろうかⅹⅳ. もちろん「半農半芸術」によって若い世代を呼び込むためには、「コミュニティ大学」を再開して、農業技術支援を行うことはもちろん、神山町にならって地域の中のインターネット環境を整えることや、住む場所や働く田畑の紹介が必要となるだろう。これには当然瓜連という地域の協力が欠かせない。しかし人に投資する地域としての基盤が整っていなければ、人を地域に呼び込むことはできない。移住や農業をしてみたいという気持ちを持つ人は潜在的に少なくないはずだろうが、実際に行動に移すのにためらうのは、その地域に受け入れられるか、そこで生活していくことができるかという大きな心配を抱えるからである。その意味でも、瓜連の地域の人びと自身が「コミュニティ大学」で行ってきたことの再評価を認知し、人に投資するということに対して一緒に取り組んでいただく必要があるだろう。 |
4.まとめ 瓜連における「コミュニティ大学」は、今日の社会において学ぶべきことの多い事例である。時代に対する先進性、そして瓜連の女性達にもたらしたものは、特筆すべきものである。3-3でも示したように、再開することで、新しい瓜連の魅力となり得る可能性がある。惜しむべきは、後進の育成がうまくいっていないことである。もちろん、全国的な高齢化や人口減少の問題はある。しかし「コミュニティ大学」自体の仕組みから考えたとき、「コミュニティ大学」における学びの形が、学校のようないわゆる段階式の学習ではなく、お師匠さんについて学ぶという徒弟制度的な手法を用いたことも要因の一つであると考える。 学校で用いる段階式の学習方法は、その名前の通り、一段階を経てまた一段階というように学習段階が移っていく。そのためには、学校側には学習に入る前に学習を実施するための計画が必要で、計画に沿うための仕組みが作られる。結果、仕組みに則って計画に沿って進めれば、基本的に目標に達する学習を提供することができる。良くも悪くも多くの人が同一の内容を学習するのに適した方法であり、教える側も、もちろん個別の違いはあるにせよ、誰でも同じ内容を教えることができる。 一方で、徒弟制度とは、知識や技術を持つ人から直接、実際にやりながらでしかわからない手段や言葉、あるいは言葉にならない空気感のようなものを通じて学ぶという学習法である。日本では、さまざまな芸能技術は徒弟制度によって学ばれている。また、師匠と寝食を共にし、「言わなくてもわかる」というところまで上り詰めながら、技術を身につけることもあるのである。ただ、このような学習法は濃密である反面、その人でしか伝えることのできない種類の知識や技術を学ぶことから、伝える人がいなくなればそこで途絶えてしまうのである。 瓜連の「コミュニティ大学」で用いた学習方法の場合、学びの方針は農協婦人部を担当した先崎氏が担っていた部分が大きい。先崎氏へのインタビュー調査の中で、女性達の声をよく聞いていたと述べていて、学習と成長に必要なものを考えて実施に移していたということがわかっている。先崎氏は事務方の担当者であったが、どこに行って何を学ぶかを指導することができた。それは先崎氏という師についていけば、その技術が身につくということであり、間接的であるにせよ徒弟制度の構図が成立するのである。つまりは先崎氏という優秀な師がいなくなったあと、あとを引き継いだ担当者に同じことができなくて当然なのである。同じ水準を保って「コミュニティ大学」を維持するためには、導く担当者側の教育も必要であったし、続くような仕組みもあわせて作っていく必要があったのである。 しかし、瓜連における「コミュニティ大学」が現在行われていないからといって、30年間の先進的な社会事業がゼロになってしまった訳ではない。加工所そのものが残っているのはもちろんのこと、「コミュニティ大学」で伝えていた生産消費者としてのものの見方、女性達の幸福は変わらず存在している。その一例として、加工所と瓜連の子どもたちとのつながりを挙げたい。 1985年10月から、「婦人農業大学」では育てた野菜を学校給食へ供給を行った。瓜連小学校の学校給食に使われている野菜が、北海道産の固いニンジンで調理に困っているという話を聞いたのが始まりだった。給食のメニュー表には、誰の畑でとれた野菜かが書かれていたということで、地域の子ども達にとっては「うちのおばあちゃんの畑でとれた野菜だ」ということがわかる。今では、スーパーで生産者の顔が見えるのは当然のようになってはいるが、それが地域の子ども達に家族の顔が見える形で伝えることができたのである。現在も、加工所の女性達は、瓜連小学校に豆腐作りを教えに行く。また保育園の園児にそば打ち体験にきてもらい、その代わりにもちつきをして繭玉作りをするなどの交流を進めている。 トフラーの指摘する生産消費者の特徴として、ボランティア活動などを通じて子ども達と積極的に関わろうとし、次の生産消費者を育てようとする姿勢がある。それは自分たちの取り組みに自信を持ち、次の世代にも伝えたいという気持ちがあるからに他ならない。「コミュニティ大学」で教えた内容は、女性達の努力によって引き継がれようとしている。その意味でも、瓜連の「コミュニティ大学」という事業の重要性が証明されるのではないだろうか。女性達の力強さに応え、瓜連をよりよくしていくためにも、何らかの形で「コミュニティ大学」事業が再開されることを願いたい。これからの社会にこそお手本とするべき事例として、改めて光を当てたいと考える。 日本地域資源学会 北村 麻菜 |
参考文献 ・池上淳、植木浩、塩原義春編/『文化経済学』1998年/有斐閣ブックス ・アルビン・トフラー著/徳山二郎監修/鈴木健次、桜井元雄他訳『第三の波』1980年/日本放送協会 ・アルビン・トフラー、ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳『富の未来 上・下巻』2006年/講談社 ・リチャード・フロリダ著/井口典夫訳『クリエイティブ・クラスの世紀』2007年/ダイヤモンド社 ・リチャード・フロリダ著/井口典夫訳『クリエイティブ都市論』2009年/ダイヤモンド社 ・塩見直紀著/『半農半Xという生き方』2003年/ソニー・マガジンズ |
脚注 ⅰ本論文では、地域の名称である「瓜連」と表記する。 ⅱ「生産消費者」とは、アルビン・トフラーが著書『富の未来』(トフラー/2006)で指摘した、新しい富を求める人のありようである。トフラーは、前著『第三の波』(トフラー/1980)で、「農業革命」、「産業革命」に続く新たな革命が来ることを予想し、それを「第三の波」と呼んだ。21世紀にくる「第三の波」の結果、人びとの求める富の価値は変わるとして、「生産消費者」が増えていくだろうと予測した。「生産消費者」については、本文の3項でも扱う。 ⅲ例えば「丸の内朝大学」は、丸の内朝大学企画委員会(一般社団法人 大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会、エコッツェリア協会(一般社団法人 大丸有環境共生型まちづくり推進協議会)、特定非営利活動法人 大丸有エリアマネジメント協会)が主催し、主に丸の内で働く人や、丸の内に集う人を対象に、仕事前の朝の時間に開講している講座である。また提供するコンテンツも、ターゲットの興味のある内容を中心に構成されている。オフィスが多く集まり、通勤の途中でも訪れやすい丸の内という地域性を生かした事業であるといえる。 ⅳ旧仁賀保町農協の組合長であった佐藤喜作氏が提唱した「農業自給運動」は、有機農業による農業自給率を上げようとし、全国的に広がった運動である。秋田県は今なお、この長い歴史を持つ有機農業の精神を引き継ぎ、行政も町おこしと絡めて推進している。 ⅴ第一回目の先崎氏へのインタビュー調査のほか、第二回目のA氏の交えてのインタビュー調査でも、当時の女性達の感覚として同じことを言われている。自分の作ったものを、言われた値段で売るのはまだしも、自分で値段をつけて売ることを非常にいやがったのだという。 ⅵ当時の名称は農林省。 ⅶ先崎氏によると、塩は伯方の塩、醤油は常陸太田、福島県須賀川市の太田酢店の酢を使用するなどしていた。 ⅷ第二回目の先崎氏へのインタビュー調査より。 ⅸ第二回目の先崎氏へのインタビュー調査より。 ⅹただし、「婦人農業大学」と加工組合のメンバーは、多くは重複しているものの必ずしも一致してはいないという。 ⅹⅰ多い家庭と少ない家庭の差異は、育てている作物の種類や、その家庭の家族構成に応じて生じるものである。 ⅹⅱアメリカの心理学者、アブラハム・マズローによる人間のの基本的欲求を分析したもの。 ⅹⅲ2015年1月29日に行われた国際交流基金JFICイベント2014トークセッション「地域と世界をつなぐアートの力」にて、神山町の発展を担ったNPO法人グリーンバレー理事長大南信也氏による。世界中のアーティストに、作品を作るなら神山町だと言ってもらえるような町の価値を高めようとする意識のもと、webサイトを立ち上げたところ、町の空き物件を紹介するメニューが最もアクセスを集めていたところから、移住者を募るようになったという。 ⅹⅳ瓜連は、田園都市計画を提唱した岩上二郎氏のゆかりの地でもある。生産消費者という視点に基づいた新たな生活が、瓜連の次世代の田園都市となり得る可能性を秘めている。 |
2015年3月20日 発行