額田まちの風土記 第12巻
額田の祭り
文化と人をつなぐ架け橋 |
江戸期の額田のまちは豊かであった。 栃木、福島、奥久慈を結ぶ 中継地点であった。 |
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額田に陸揚げされた物資は、 陸路那珂川まで運ばれ 涸沼、北浦、利根川を経由して 江戸に運ばれた。 もう1つは那珂湊をへて、 東北、江戸、その他に海路で運ばれた。 それゆえ、額田は 建具などの職人のまちとして、 同時に宿場として繁盛していた。 |
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全国から、人、モノ、情報が集まり、 裕福な集落であった額田の生活者は、 よそのまちがそうであるように まちをあげて、盛大に祝うハレの日を 演じたくなり、天保4年に、 額田神社大祭礼を行うようになった。 |
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大正13年までは、4月8、9、10の 3日間、那珂湊まで渡御が行われ、 金砂神社の大祭礼と同じように 100人以上の渡御行列を くり出していた。 |
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大正時代までは、 額田の16町内の山車が活躍していた。 現在、7台の山車がのこっている。 古宿町・上ノ町・本後町・柄目町・ 新地町の5台の山車が現役で活躍し、 3年に1回の大祭礼が行われる。 この5つの山車には、それぞれに たくさんの彫刻が彫られている。 |
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上ノ町の山車 中央正面の上に、うるしぬりの 鳳凰をいだき、舞台の両端には 竜の頭が彫刻されている。 舞台奥の欄間に彫られている。 3匹の金色の亀と2羽の鶴、 松竹梅のふすまが ひと組になっていて、縁起がいい。 この2羽の鶴は、 芸術的にも価値が高いと。 |
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本後町の山車 ひのき、杉及び松を材料としている。 総白木の組立式の構造で、 ひのき、松を用いたすかし彫りと 浮き彫りの彫刻が ふんだんに用いられている。 これらの、装飾だけではなく、 構造物としても大切な役割を担っている。 |
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柄目町の山車 柄目町の山車には、彫刻がたくさんある。 正面左右の柱には、 白木で上り竜、下り竜が彫られている。 山車のまわりには 干支の十二支が彫られている。 中央正面の1番高いところにある 「でんぎょう」は見事である。 |
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この「でんぎょう」には、 今から約700年前の南北朝戦争時代、 「楠正成」の最後の戦いとなった 神戸湊川の楠木親子の「桜井の別れ」 対面の様子が彫刻されている。 |
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新地町の山車 新地町の山車は、 すべてうるしで塗られている。 欄間の鮮やかな色あいと装飾は 見る人をくぎづけにする。 |
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古宿町の山車 この彫り物は、 明治のはじめ頃に製作された。 右は神功皇后、左は竹内宿禰で、 2人がだいている子どもは 後の15代応神天皇を表現している。 |
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額田祭りは、 3年に1度しか開催されない。 私は今年それを見ることはできなかった。 しかし、取材に訪れたモチの木まつりで、 子どもたちとともに、3年先の 額田祭りのためにお囃子を練習している 大人たちを見ることができた。 |
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お囃子の練習をとおして、 礼儀、しつけ、そして社会参加の きびしさとよろこびを体験している 子どもたちの目はかがやいていた。 額田祭りには、ふるさとのあしたを担う 人づくりプログラムが埋め込まれて いることを私は、確信した。 |
2017年2月15日 初版第1刷発行 | |
取 材 | :佐藤 里香 |
著 者 | :佐藤 里香 |
編 集 | :佐藤 里香 |
発行者 | :日本地域資源学会 |