史跡・天然記念物
那珂市は那珂川と久慈川の間に開けた豊かな大地です。先人たちは有史以前より様々な営みを繰り返してきました。佐竹氏が台頭し、額田城が築城された中世期、舟運や街道整備が盛んに行われた江戸時代、また、那珂市には市のいたるところに巨木があり、いずれも優に樹齢数百年を数える名木が、私たちが生を受けるはるか前から市の歴史や人々の営みを見つめてきました。 |
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名称・所在 | 写真 | 説明 |
ナカマチクジラ化石 | 額田南郷で発見されたハクジラの歯20数本と骨片の一部。今から1100万年前のものと推定されています。 | |
鞍掛石 | 八幡太郎義家が奥州征伐に向かう途中、鞍を馬からはずしてこの石にかけて休憩したら、後日その石が鞍に似てしまったといわれています。 | |
鈴木家住宅 (光圀休憩所) 那珂市額田南郷464 |
江戸中期の建築で、当時就藩した藩主の瑞竜山墓参の時の昼食場となっていた額田村庄屋鈴木市十郎宅。 | |
額田城跡 那珂市額田南郷103他 |
額田城は、建長年間(1249~1256)佐竹氏五代義重の次男義直が築城し、額田氏を称しました。10代義亮の時、佐竹氏宗家と対立し、応永30年(1423)佐竹13代義人に攻められ落城、額田氏は亡びます。その後、義人の家臣小野崎氏が城主となり、以後七代義宣に、照通に異心ありとし、攻められ落城しました。照通は、陸奥へ亡命し、以降廃城となった。城の歴史は17代約340年続きました。 内壕・外壕まで今なお残っていることが確認されています。 本丸跡面積 約16,000㎡ 指定区域面積 約77,000㎡ |
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清水寺の杉 那珂市東木倉166-2 |
清水洞の上公園の一角にある清水寺の大杉は樹齢500年以上と伝えられています。境内周辺には現在でもこんこんと湧水が湧いており、さまざまな生き物たちの生を育んでいます。 | |
三嶋神社の椎の樹叢 那珂市本米崎1970 |
神社は久慈川を望む台地の北側の斜面上部に位置し、スダジイ、ヤブツバキ、シラカシの常緑広葉樹や、ケヤキ、ヤマザクラ、クマシデの落葉広葉樹などの多くの樹種から、樹叢をなしています。なかでも入口の鳥居近くのスダジイは推定樹齢約800年を数える古木で一部に腐朽した部分が見えるが、長年の風雪に耐えた姿に力強さを感じます。このスダジイを主として社は鬱蒼とした様相を呈しています。 | |
菅谷のカヤ 那珂市菅谷756 |
主幹は直立し、根元から南西に支幹が斜めに出ています。枝の広がりが大きく、東西に約21m、南北に約23m、最も低い枝は地上1mに下垂しています。種子は大きく、縦に施包するヒダリマキの溝があります。樹勢盛んです。 |
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菅谷のモチノキ 那珂市菅谷841 |
地上1.5mで、3支幹に分かれ四方に広がります。主幹は直立し、上部の髄が腐朽し空洞になっています。やや老えがあるが、樹勢は良好の方で、枝張りは東西15m、南北に13mあり、最も低い枝は地上1.4mに下垂しています。 | |
不動院のカヤ 那珂市菅谷3021 |
主幹は根張りも力強く素直に伸長して、枝は四方にバランスよく広がっています。一時期、葉の量も少なくなり衰退の傾向にあったが保護策がとられて管理状態も良く、枝張りは東西20m、南北に18mあり樹勢は盛んで、カヤとしての樹形もよく整っており、雄大な樹姿を呈しています。不動院は、応永29年(1422)に創建されました。このカヤの木は、創建以来のものと推定されます。 | |
静のムクの木 那珂市静455 |
桂木稲荷神社に県指定の天然記念物「静のムクの木」があります。八幡太郎義家が奥州征伐の途中、軍をここに休めたとき、持参した鞭をさし置いたまま出発してしまい、それが根付いて今日のような大木になったといわれています。 | |
瓜連城跡 那珂市瓜連1221・1222 |
南朝方の楠正成の甥、楠木正家が東国経営の拠点として延元元年(1336)正月、瓜連城に入城したが、北朝方の佐竹義篤の総攻撃を受け、同年12月に落城しました。正家の居城期間は短かったが、南北朝史上貴重な史跡です。常福寺の境内になっている所が楠木正家の拠った瓜連城の本丸跡とされています。城の形式は、中世紀城郭の姿を彷彿させ、北東面は急な崖となっており、標高差は約20mあり、土塁は二段に構築され、ところどころにやや平坦な所があり、一種の小さな出丸(武者溜)があります。また、瓜連宿内に多くの土塁の残存遺構もみられ、これを外郭と考えると、城の大きさは東西南北それぞれ700mほどの規模となります。 | |
戸村城跡 那珂市戸 |
戸村城は、下野(栃木県)を本拠とした藤原秀郷の末裔の能通(姓藤原江戸氏斎藤系大譜)が永暦元年(1160)に築城して、戸村小三郎と称したといわれています。戸村氏は南北朝争乱の時期に、南朝方として瓜連合戦など各地に戦ったが破れ、建武3年(1336)滅亡しました。くだって寛正元年(1460)、佐竹13代義憲(義人)の三男義倭が城郭を修復、戸村城を再興し戸村氏を称し八代にわたって栄えます。 関が原の戦いの後、慶長七年(1602)佐竹氏は秋田へ国替えとなり、戸村氏もこれに従って秋田へ移り、戸村城は廃城となりました。秋田に移った戸村氏は、八代義国が大阪冬の陣で、徳川秀忠から感状を与えられるなど活躍、九代義連は寛文12年(1672)に横手城代となり、以降明治まで、佐竹一族の重臣として栄えました。 |